僕ほど自分自身のことを伝えるのが難しい人間はいないんじゃないかと思うほど、
僕は自分のことを説明するのがとても苦手です。
自分のことを話すのは嫌いじゃないんですが、
どの部分を切り取って伝えたらいいのか、いつもとても迷います。
「あなたは一体何をしているんですか?」と聞かれることがいつもとても困る。
人に聞かれてとりあえず話すのは、世間的な肩書きで言えば、経営者だから、どんな事業をしているか話します。プロジェクトをいくつも同時にやっていて、それを説明したら、多すぎて全然伝わらないので、とりあえず一番収益が上がっている事業の話をします。
でも、そもそも思うのは、「何をしているのか?」というのは、その人を表現する上で、とてもとても限定的で、その人自体から大きく遠ざかってしまう気がするのです。
マッサージをしています、弁護士をしています、公務員をしています、どれも、その人のアイデンティティーが全くわからない。アイデンティティーがわからなければ、その人とどう付き合っていいのかもわからない。逆にそんなことを話されても、全然興味が湧いてこないし、
それを聞いて「この人素敵!」って思うことなんて全くない。
あくまで僕はそう感じるのです。
じゃあ、お前は一体どうなんだよ、という話になるわけです。
もう、何百回それを考えてきているのですが、未だにわからない。
自分のことを伝えるってほんと大変です。もちろんその都度その都度、自分のことを伝えるのですが、いつも変わるし、これからも変わっていくんでしょう。
みなさんは「パンドラの箱」というのはご存知でしょうか?
僕も詳しくは知らないのでちょっと調べてみました。
ざっくり話すと、
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ギリシャ神話にパンドーラという人類最初の女性と言われる人いました。
そこにゼウスという神様がいて、そのパンドーラに出会った時とある箱を渡します。
「いいか、絶対開けるなよ。絶対だぞ!」といって、箱を渡すのです。
それが「パンドラの箱」です。「全ての贈り物」という意味が込められているそうです。
どう考えても、「箱を開けてください」ってふりですが。
その開けてはいけない箱を開けてしまうと、
いわゆるネガティヴな感情が閉まってあって、
怒りや悲しみ、嫉妬、憎しみなんかがわんさか出てくるのです!ぐわー、うわーっといった感じで、世界に広がるではありませんか!
ですが、出てきたのはネガティブなものだけではなかったのです。実は、箱の最後に残っていたのが「希望」だったのです!
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みたいな感じで、諸説ありますが、だいたいこんな感じです。
で、なんでパンドラの箱の話をしたかというと、僕はどうやらその人のパンドラの箱を開かせたい、というか開かせてしまう存在なのかもしれません。つまり、「君は一体何者なの?」と聞かれたら、「あなたのパンドラの箱を開かせる人です」と答えてしまうかもしれません。結構やばいやつですね(笑)。
でも、確かにそれをしたいなという願いが自分の中にあるわけです。
今の世の中って、自分の感じていることや感情に蓋をしてしまう人が多いように感じるわけです。もしくは出せたとしても、その扱い方がわからない人も多いです。僕たちは、この身体というものを授かって、この地球という星に生まれてきたわけですが、まあ不自由なわけです。何が不自由かって、食べないと死んじゃうし、呼吸を数分止めただけで生きられないし、空も今のところ飛べません。テレパシーも一部の人を除いてほとんどできないでしょう。制限があるのが、身体をもった人間の運命なわけです。
神様はなぜそうしたのかと聞いてみたところ、「いろんな体験をして、いろんなことを感じるためじゃよ。ほっほっほっほ」と聞こえる気がします。不自由さがないと、いろいろ感じづらいのです。会いたい人にテレポーテーションで一瞬で会えちゃったら、会えない時の寂しさやもやもやなんかは生まれないかもしれなし、出張で家を空けて、久しぶりに会った妻や我が子を見て愛しいなぁって感情は出てこないかもしれません。
つまり、僕たちは、いろんな感情を味わうのですが、それは僕ら人間の特権であり、かけがえのないものだと思うのです。
そして、その人のアイデンティティーやその人を知るためには、その人がどんなことに悲しみを感じるのか、怒りを感じるのか、その奥にあるのはなんなのか、というところと、めちゃくちゃ繋がっているなと思うわけです。
同じ出来事でも、どんな風に感情が動くのかは人によって異なるんです。そして、その感情の奥に、その人の中で、飛び出したい、表現したい「何か」があるわけです。僕はそれが出る瞬間に、命の躍動感を感じ、また美しさを感じ、それに触れていたいという思いが出てきます。湧いてきちゃうわけです。
みなさんは自分の中にあるパンドラの箱を開けたいですか?
開けたくない人の方が多いかもしれません。見たくないものを見てしまうかもしれないですからね。そしたら、僕とは会わない方がいいかもしれません。開いちゃうかもしれないので(笑)
でもですね、「自分の中にあるもの」を見ないようにしていても、実はいいことなんてないと思うわけです。本当はしたくない仕事をし続けて、疲れてしまって、感覚が麻痺してしまって、死ぬ間際に「あれ?俺、結局どんな人生にしたいんだっけ?」とわからなくなってしまうかもしれません。無理してがんばって、身体からめっちゃ悲鳴が上がっているのに、それを見ないようにして、病院に運ばれちゃうかもしれません。
本当は人は自分の中のパンドラの箱を開けたいという願いがあるんじゃないかなって思うのです。「私はこれで悲しんでいる」「私はこれに怒りを抱いている」「私はこんな寂しい思いをしている」それを誰に知られずに、しまわれてしまうことが、本当にいいことなんでしょうか?僕はそうは思いません。自分の内側にあることは、時に理不尽で、非常識で、困ってしまうようなことがあるかもしれません。結婚しているのに、違う異性を好きになるかもしれないし、家庭があるのに、今の仕事を辞めて旅に行きたくなるかもしれません。内側にあるものを見ないようにしていた方が、無難で、今の生活を守れるかもしれません。
でも、それにはきっと命の躍動感や美しさ、輝きは生み出されないと思うのです。
僕たちには自分の中にあるパンドラの箱に、一人一人にしかない美しさが眠っていると思うのです。僕はそれを見たいし、その深さで人と繋がりたい。そこに愛しさがあって、言葉に言えない何かがあって。だから、自分もそうでありたいと思うわけです。自分の中にある何かを、ちゃんと見てあげる。人の中にある何かを、ちゃんと見てあげたい。
宮田亮介ってそんなやつなのかもしれません。ああ、なんか、この感じが嬉しいのかもしれない。誰かにわかってもらう為の、自分自身じゃなくて、「自分自身が自分をわかってあげる感覚」っていうのが、喜びとすごくつながる感覚がします。これは僕の中にある感覚ですね。
あなたの中にある、あなたにしかない感覚はどんな感覚ですか?