「自分の思ってることを発信するのが怖い」
僕の周りではそういう風に言う人が結構います。
かく言う僕は、思いを発信するってことに関しては、あたり前のようにしてきたのかもしれません。飽き性でなかなか物事が続かない僕も、思いを発信するということはずっとしてきている気がします。
ただ、ずっとしてきているから、
自信満々にできるか、と言われるとそうではないのです。
なぜかというと、発信とは、届けたい思いや願いがあって出すわけであって、
必ずしもそれが、届けたい相手に届くわけじゃないし、伝えたいことが、
違う形で伝わってしまって、誤解を招いてしまうこともあります。
それでも、なぜ発信をするんだろうとふと考えてみたんです。
別にしなくたって、死ぬわけじゃないし、誰かに怒られるわけでもない。
急に話は変わるんですが、僕は中学高校が野球部でした。
中学生のころは、ずっと補欠で試合にはほとんど出ることができませんでした。
高校3年生の時に初めてレギュラーになることができ、引退する時には、スタメンで試合に出ることができました。
僕は試合に出れなかった時に、いつもこんな風に思っていました。
「きっと打席に立つことができれば、俺の方が打てるのに。あいつより上手いのに。」
練習もたくさんしていたし、打席にさえたてば打てるはずだと。でも、実際に試合に出てみると、全然打てなかったりするわけです。
そこでわかるんです。「ああ、自分の実力って、今ここなんだな」って。
嬉しい意味でも嫌な意味でも、現実はちゃんと突きつけられて、言い訳しようがしまいが、
それが今の自分の現在地なんです。その現在地をみるのが実はすごく嫌で、
努力していればしているほど、その現実を見たくないわけです。「いや、今回はたまたまだ!次はきっと打てるはず」と思うわけです。でもこれだと良くないと思うのです。結果というのは、実力や運が重なって出るものだったりするので、どんなに素晴らしいプレーヤーでも、毎回打てるかというと、そうではないのです。ただあるのは、「打てた」「打てなかった」という事実です。そして、その上で見るのは、「自分はその打席にベストを尽くしたのか」ということ。
打席という舞台で、自分自身が表現したいことをちゃんとしたのか。それとも、出せなかったのか。見るべき現在地は外側の結果ではなく、自分の内側で何が起こっているかをみることがとても大事だと思うのです。
これって、発信することとても似ているなと思って。何かの思いや伝えたいことがあるから、
発信をするわけです。誰にも受信されることを望まない発信なんて存在しないと思うのです。
まぁ、誰か、という風な明確な人がいなかったとしても、です。発信と受信はセットなわけです。
発信すると、この世界と自分のつながりが見えてきます。良い意味でも悪い意味でも。
「自分が◯◯をしたい」と発信して、目に見える反応が起きる場合もあれば、起きない場合もある。それが、オンラインであっても、実際であっても同じで、発信すると自分の現在地が見えてくるんです。
でも、これって結構怖いわけです。なんの反応も起きなかったり、なんの結果も起きなかったりするかもしれない。それでも僕は発信をし続けるし、それを人にも進めたいのです。
なぜかというと、発信っていうのは、つまり自分自身の表現なんですが、それを放った後に、
実は一番反応しているのは、自分自身なんです。発信することで、自分を知れるんです。
そして野球と同じなのは、打席に立てば、ちょっとずつでもうまくなるんです。打席に立たないと、「本当は打てるはずなのに」という幻想を抱き続け、ちっとも現在地がわかりません。
やってみて、現在地をみて、そして進んでいける。
僕はこれからも発信し続けると思います。野球の打席と発信することの違いは、
野球は打席に立ちたくても、立てないことがあります。自分が打席に立ちたいと時に順番が回ってくるかわからないし、そもそも試合に出れなかったら打席には立てません。
ところが、発信をするというのは、いつでも、誰でも、どこでも、できるんです。
自分がしたいと思った瞬間が、常に打席になるわけです。そう思うと、発信することの方がチャンスがたくさんあるなって思うわけです。常に、自分の人生の現在地がわかる。自分自身の内側で、どんな反応が起きてるかみることができれば、僕たちは自分の人生の表現を、もっと磨いていけると思うのです。そして、その磨いた表現で、一番感動するのは自分自身だったりすると思うのです。
そんな風に、今日も僕は打席に立ちます。